平安京以前:天皇と貴族は京都をどう見ていたかBefore the Birth of Heian-kyo: How Emperors and Aristocrats Viewed Kyoto
この記事では、日本文化の発信地とも言われる京都市に平安京が誕生する以前、京都が天皇や貴族たちにどのように見られていたかについてです。
世界有数の観光都市となった京都市は、一般的に日本文化の源泉であり、象徴だとみなされています。多くの人が考える「京都」のイメージが成立する最初の出来事は、天皇が長らく都を置いていた奈良を放棄し、794年に京都へ遷都を決めたことに始まります。遷都とは、天皇の住居がある土地、政治の中枢地(都)を移すことです。
現在、多くの人々は日本の首都は東京だと思うでしょう。しかし、驚くべきことに、法的に日本の首都が東京と定められたことは一度もありません。この事実は、日本人の間でもほとんど知られていません。つまり、現在も事実上の首都は、京都だと言える側面があります。ここに、今も続く国内の複雑な東西対立(関西と関東)の根深い原因があります。
京都への遷都が行われた794年以降、天皇の皇居は歴史的に京都にありました。しかし、それから千年ほど経過した明治維新期の1868年9月3日、天皇ではなく、新政府の大木喬任と江藤新平の建言によって、京都から江戸への遷都が決定します。こうして天皇は新政府軍の圧力を受けて、京都を離れて江戸に移ることを発表しました。この時、江戸は東京と改められ、実質的な首都機能は東京へ移ります。
さらに、徳川家の城であった江戸城は東京城と改められ、天皇がここに移ったことで、現在の皇居の歴史が始まります。
このような歴史的背景から、京都の人々は、自らが日本文化の担い手であるという高いプライドを持っています。しかし、平安京が誕生する以前の京都市内は、天皇や貴族から卑下される不毛な土地であった事実は、現在ではほとんど語られません。
平安京以前の歴史を振り返ると、初代神武天皇以来、都は奈良に置かれていました。例外的に、大阪の難波宮(なにわのみや)、滋賀の近江大津宮、紫香楽宮(しがらきのみや)、京都南部の長岡京などへの遷都はありましたが、現在の京都市中心部に都が置かれることはありませんでした。
そしてこの時代、京都市は「山背(やましろ)」と呼ばれた地域の中でも、辺鄙な土地でした。この「山背」という日本語の名称の由来は、都のある奈良と京都の県境にそびえる奈良山に対して、奈良から見た場合に「向こう側(山の背中)」という意味です。
これは蔑称です。それだけ当時の京都市は、奈良の天皇や貴族にとって有益な土地ではなく、政治の目の届かない、危うい場所とも見られていたのです。ですが、時の桓武天皇は、多くの覇権争いが宮中で起きたことから、新たに遷都する土地を決めなければならないほど、追い込まれます。
こうして、京都市内への遷都を余儀なくされた桓武天皇ですが、山背という蔑称は、相応しい呼称ではありませんでした。そこで桓武天皇は、新たに宮廷を構える都の国名が蔑称では求心力を損ねると考え、正式に「山城(やましろ)」へと表記を変更し、その正当化を図ります。発音は同じですが、「背中」に対して、「城」という意味があてられています。
やがて、794年に京都市内で平安京が誕生します。こうして京都市内に初めて注目が集まりますが、実は初期平安京は、あっという間に荒廃したとも伝えられています。今後、この辺りも様々な歴史背景を含めて、開示していきます。