日本映画の歴史のはじまりHow the History of Japanese Cinema Began
日本は映画大国の1つですが、その歴史はどのように始まったのでしょうか。まず、遡ること1891年、アメリカでトーマスエジソンが「キネトスコープ」を試作機を完成させ、1893年のシカゴ万博、1894年にニューヨークで商業公表します。さらに、「ファンタスコープ」をベースにした「ヴァイタスコープ」が1896年に発表され、1895年にフランスでルミエール兄弟が「シネマトグラフ」を発表します。
西洋で生まれたこれらの技術が、日本に輸入された歴史は錯綜しています。様々な記録を参照する限り、キネトスコープによる映像の公開は、1895年に大阪難波の南地演舞場で行われたとする説があり、こちらが日本初の上映地として知られています。
一方、1897年に神戸の貿易商・高橋信治なる人物によって輸入され、大阪、浅草で公開された説もあります。ヴァイタスコープも1897年に東京で公開されており、同年にシネマトグラフの輸入を京都の貿易商・稲畑勝太郎なる人物が行い、東京で公開されています。
この技術輸入段階では、当然、機材を扱える外国人技師が必要でした。外国人技術者を機材とともに日本に呼び寄せることによって、同時に西洋で撮影された作品を上映するだけでなく、日本の風景や文化を撮影しようとする動きが当然生じます。
そのために、撮影機材が初めて輸入されますが、その最初は東京の小西六兵衛だと見られています。後の1903年に日本で初めて量産カメラを発表し、1929年には自社製の写真フィルムを発売したことで知られる、有名なコニカ株式会社の事実上の創業者となる人物です。
当時、小西は曽祖父の始めた薬販売問屋を営んでいましたが、25歳の時に写真に感動し、大きな可能性を感じて、本業とは別に写真器材を取り扱いを始めています。
彼はフランスのゴーモン社から撮影機材を輸入し、日本に来日していた外国人技師を使い、初めて撮影を行ったと言われています。ただし、これは結果が良好ではなかったため、発表はされませんでした。
最初の重要な契機が生まれたのは、1898年です。三越(デパート)で写真部に勤めていた柴田常吉と、小西の元で働く浅野四郎が、この輸入した撮影機材を利用し、初めて撮影に成功します。
ただ、まだまだ知見が足りず、撮影、現像作業で困難を極めた上、不完全なままに終わったと言われています。そのフィルムは、1899年に広告代理店の廣目屋に買い取られ、ヴァイタスコープを用いて、6月に歌舞伎座で公開されています。
撮影内容は、銀座、浅草など東京の観光地だと記録に残っています。初めて自分たちの街を映像で見た日本人は歓喜し、公開も見事に成功しました。こうして映像の可能性を感じた廣目屋は、同じ1899年に浅野に撮影を担当させ、日本最初の劇映画を制作します。この映画は、実際の事件をモチーフにしたものです。
1882年、東京で80件以上の強盗を行い、5人を殺害した清水定吉は、日本初のピストル強盗で社会を震撼させました。このように、事件から16年程度を得て、人々の記憶から消え去ろうとしていた事件が映画において最初に描かれたことは、現在までの日本映画に多くの影響を与えています(フィルムは現存しない)。
さらに同じ年、吉澤商店によって東京で大相撲が撮影。こちらも7月に公開され、人気のあった相撲が映像で見れることから、かなり成功したようです。
そして1899年11月28日、日本でフィルムが現存する最古の映像が撮影されます。それが歌舞伎の『紅葉狩』です。
こちらも、撮影者は柴田常吉が行いました。ただ当時、歌舞伎界の重鎮の間では、伝統文化に対する誇りを名目に、新興娯楽としての映画は非常に嫌われていました。実は、この一部の有名歌舞伎役者の映画嫌い(新しいものを拒む)という保守的な動きが、後の日本映画に重要な意味を持つことになります。
歌舞伎は、御家制度に厳格に守られているため、どれだけ才能があっても、チャンスが巡ってこない有能な役者たちが大勢居ます。彼らにとっては、活躍の場を映画に移したいと思うのは、自然な流れでした。
その動きが高まるのは1920年代ですが、この時、歌舞伎界から役者は映画出演を禁じられ、映画に出演した役者は異端視され、以降、歌舞伎に戻ることを許されない事態が勃発します。代表的な人物は、澤村源之助です。
ただ1899年時点では、まだそうした大きな動きは起きていません。当時、最高峰の歌舞伎役者だった九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を、どうしてもフィルムに残したいと説得した結果、生前には一般公開しない条件で撮影を許可します。これにより撮影自体は、1899年に行われたのですが、一般公開が行われたのは1903年でした。
この重鎮たちの動きを皮切りに、自らの舞台を撮影してほしいという積極的な態度を持つ歌舞伎役者たちが当時は存在したため、結果的に、多くの歌舞伎撮影に繋がりました。
このことから、『紅葉狩』に代表される歌舞伎を撮影した映像は、映画というよりも舞台をそのまま撮影した作品と呼び得るものです。しかし、相撲や歌舞伎の撮影を通じて、徐々に映像制作技術を日本人が獲得していき、やがて大きな映画の勃興が起きるのです。