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日本文化の多くは中国由来なのか:複眼で見るDid Most of Japanese Culture Come from China? A Complex Perspective

日本文化の大半は中国から来た。この認識は国内でも意外と強く見られる説ですが、実際に歴史を鑑みると、特定の時代以降はそうと言えても、それ以前にはそうだと言えない複雑さがあります。

その重要な時代閾となっているのが、古墳時代です。考古学者の間でも多くの混乱が見られる日本の時代実定ですが、概ね、古墳時代は三世紀中頃から始まったと理解されます。

この古墳時代を形成する主軸となった人々は、約3,000~1,700年前に日本に渡来してきた渡来人です。彼らのルーツは東アジアにあり、多くは帰化して定住化を果たします。この過程で、かなり中国由来の文化が伝来しますが、その受容先はほとんど例外なく宮中に限定されていました。ここは、一つのポイントです。当時の日本というものは、事実上、現在の奈良県南部を限定的に示す程度でした。

確かに中国を奉祀する傾向は、すでに古墳時代以前の弥生時代頃から始まっています。中国の歴史書『三国志』に記された「魏志倭人伝」によると、複数の日本の首領らが中国の皇帝との関係強化を求めて、度々、使者を通じて接触していたことが記されています。そのため、乱世の中国王朝の力学が変動すると、日本でも動乱が度々起きていました。

現代日本で考えると、「米国がくしゃみをすると、日本は風邪を引く」などと言われますが、このような関係が古代から中国に対してあったということです。

ただし、こうした流れがはっきりと現れるのは、さらに時代を降った飛鳥時代(593~710)です。飛鳥時代に入ると、中国文化の最大の特徴であった文字、さらには中国化された仏教が次々と伝来し、その新たな文化の受容を巡って、宮中で激しい氏族間の対立が繰り広げられました。

この時、中国文化の国内促進を主張する一派が登場します。それが、蘇我氏です。特に推古天皇(在位: 593~628)の時代には、中国文化受容の仕掛け人とも言える聖徳太子(574~622)が登場したことで状況が一変します。

蘇我氏の当主であった蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子のトライアングルによって、一気に中国化が推し進められます。こうして、表向きには仏教の受容と排斥に分かれた氏族たちの関係は、やがて戦に発展します。最終的に蘇我氏が圧勝したことによって、時代は急速に中国文化を国内促進する新時代に突入します。

ここから奈良を中心に、一気に中国文化が拡大したことから、一般には奈良時代(710~794)と呼ばれます。この見方に一定の事実はありますが、その基礎にあったのは、古墳時代由来の東アジア系渡来人の末裔たちです。

元々ルーツが東アジアである彼らは、中国の文化に馴染みがあり、さらに新時代の潮流に合わせることが、帰化集団の生存においても優先事項であったことなどが背景に考えられます。特に奈良から大阪は、帰化集団が多く居住する土地でした。

こうして、飛鳥時代に中国文化を積極的に日本化する決定的な潮流が生まれます。ここを基礎に考えると、古墳時代から飛鳥時代は、日本において中国文化の受容過程であったと見做すことは可能です。実際、この時に培われた文化形態は、以後の日本史では避けられないファクターとなり、事実上、日本史を形成する原動力となっているからです。

ある意味、日本は未だ、この時代に形作られた枠組みを強く引き継いでいると言えます。

この観点から見ると、現代日本の文化は確かに多くを中国に由来します。ただし、飛鳥時代から現在までは、所詮1,300~1,400年程度の歳月に過ぎないことを見逃してはなりません。なぜならば、東アジア系渡来人が流入し、文化を成立する以前、日本の先史時代と呼ばれる縄文時代から弥生時代を含めると、その期間は10,000年以上に及ぶからです。

つまり現実的な見方としては、10,000年以上に及ぶ日本文化の基礎的段階があり、古墳時代以降のおよそ千数百年に及ぶ、中国文化の受容と排斥を巡る動きを大きく設定できます。

私たちにとって1,000年は非常に長い期間ですが、歴史の観点から見ると、日本文化が中国文化に多くを依存していたとは言い難い事実があるのです。

着物や畳、さらには絵画など中国に源流を持つ文化は多様にありますが、それらを独自に発展させたのは日本です。その異文化のリミックス技術の根底にあるのは、10,000年以上に及ぶ、通常は語られない文化形成を考慮しなければなりませんが、ここを無視する論者が多いため、中々実態が見えてこないのです。

個人的には、日本文化の大半は中国文化を起源とするという一般的な説は、部分的に事実であっても、総合的には事実ではないという複雑性があると考えています。