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サービスとホスピタリティの違いService and Hospitality Are Not the Same

年々、サービスとホスピタリティーを混同している人が多いことに気づきます。例えば外国人観光客は日本をサービスの国だと褒めますが、それは全てのサービスが一律に提供される高度な機械化された社会です。そこでは人間の顔が消えており、誰一人として生きてなどいません。

誰かに配布されたマニュアルに従うことが、世界でも際立って徹底されている現代日本。これは観光程度の関わりであれば、高度なサービス社会を実現した世界に見えるでしょうが、実際に中長期的に住むと、人間関係が劣悪になる根源であることを誰もが理解します。なぜならば、サービスはマニュアルを配布する企業側の都合に従う従業員が、その企業内に閉ざされた規範を顧客に押し付けるビジネスによって成り立っているからです。

その意味では、日本は世界一高度なサービス社会です。ゆえにそこに暮らす人々の生活では、常に個人は存在しません。顔を消され、抽象化された曖昧な存在だけが、一律的に跋扈する現実が形成されてきました。年末年始を東京で過ごしましたが、この反転したサービス規範が、遂に従業員による顧客への苛立ちとしてかなりはっきりと現れ始めたように思います。

つまり現代日本は、生命線であったサービスの実現が不能化しているのです。

そもそもホスピタリティーが成り立たないのは、提供者と顧客の関係において、両者が高い水準の教養を持たないことに起因します。いくら提供者側が高度な教養を持っていても、顧客が全くその水準に達していなければ、ホスピタリティーは成立せず、サービスへと転倒します。世界中で問題になっているオーバーツーリズムの本質は、結局のところ全てがサービスに転倒し、ホスピタリティーが成立しないことに対する生活者の苛立ちともいえます。

しかも最善が最悪となっており、未だに顧客を啓蒙すれば問題は解決すると考える人々が相当数居ます。

根本的に顔が消えることで、個人存在は無化されます。その次元での評価は、日本人はサービスが優秀だなどという、既に誰かによって一般化された概念によって裁定されます。そんな事は本来ありえないのですが、日本社会も観光客に対して、そうした一般化を相互に働かせます。この時、日本社会には個人存在が無いため、個人存在を持とうとする主体は深刻な格闘を強いられます。

この主体を巡る格闘は、日本社会において個人に勝ち目はありません。例外なく主体は死体となるからです。しかしそれを拒む、自律的な主体を持つ人々が僅かながらもいることは事実です。そうした人々に対して、社会は常にソーシャルエージェントとなるための配備を随所に徹底し、四六時中圧力をかけ続けます。

例えば9時から6時まで会社に出勤して、死体として何もしない日々を過ごしながら、出勤時間以外にも、死体として社会化されることを強いられるのです。これを実現しているのは、“気になる”と思わせる仕掛けです。これを随所に張り巡らせることによって、24時間社会のことだけを考え続ける状態を作り、人々を追い込みます。

こうなると、自律的な主体を持つ人であっても、歳月を掛けて絡み取られてしまうため、1990年代から現在まで、全く日本から未来が提案されない事態に陥りました。

私もこの現実と格闘しながら、24時間社会のことを考えさせられる社会イズムの状態を脱し、未来を考えることに労力を注ぐ健全な状態を作ってきました。社会イズムの実現の途上にあるほかの場所でも、今後社会的に問題となるでしょうが、社会主義から社会イズムへの移行期において起きる事は、未来の可能条件を考える意志の全面的放棄です。社会イズムの基本性質では、何もやらないことが唯一何かをやることになります。

つまり、思考しないことが思考することであり、生きないことが生きることである状態です。この状態に達すると完全なサービス社会を実現できますが、個人主体と個人主体の対的な関わりであるホスピタリティーは喪失します。そこにおいてパブリックとプライベートは消去されてしまい、すべてがソーシャルとプライバシーの空間へと転移します。この時、顔が消え、完全な抽象化が一般化されるため、生命を奪われた存在は、生きる力を失い、あっという間に死体のようになります。これが社会イズムの行き着く先です。

ここからの離脱は容易ではありませんが、肝心な事は、どの国にあっても、近代を批判的に洞察するには、前近代をしっかりと熟知しなければなりません。同時に未来を考えるのであれば、古代を熟知しなければならないのです。

こうした知恵を持って、高度な非人間化をactし続けることによって、私たちは生きることを再認識することができるのです。

年末年始を通じて、改めて日本の社会イズムが過酷な次元に到達し、ついに社会は成熟を超えて、老衰し始めたことを感じます。人間は完全に置き去りにされ、社会だけが老衰する現代日本。旅行者は日本を来訪し、誰も存在しない社会を巡る旅を行います。

日本社会はもう、事実上の無人社会なのです。

Japan as an Uninhabited Society: No One Is in Tokyo