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朱の世界4The Vermilion Road: From Ancient Cinnabar Networks to Kukai

『魏志倭人伝』には、倭人が朱を身体に塗っていると簡潔に記されています。その記述からは、私たちには想像できない古代日本の姿が示唆されています。その中国側の記録から歳月を経た9世紀前半、真言宗の開祖として有名な空海が古代日本の辰砂を求めて四国を探査し始めます。点として見ることのできない歴史において、この一人の僧侶の行動の背後にはどのような歴史が潜んでいるのか。壮大な朱を巡る日本の物語は、未だ多くの謎に包まれたままです。

九州から関西にかけて連なる水銀鉱床群の分布から理解できることは、辰砂の価値が注目されると転換点を迎えた時、辰砂の探査に出たと推察される古代日本人の見えない姿です。縄文時代は後期に入って辰砂を産出・加工・流通する広範囲なネットワーク網を確立していた痕跡がありますが、それは高度に発展した形として残ったものであり、それ以前にはさほど注目されていなかった可能性も考慮しなければなりません。

仮に辰砂を求める新たな人々の登場によって、日本各地に埋蔵されている辰砂の探査が始まったと考えれば、それは一体どのような人々によって実行されたのか。この不可視の動きを辿ることは、単に辰砂の歴史を開示するだけではなく、東アジア全体の古代部族の移動の痕跡を知ることにも繋がります。結果的に見れば、この記録されない時代の辰砂発見の功績が、後に空海の四国遍路の原型を築いたとも言えます。つまり、四国遍路の起源は空海による信仰心や修行によって行われたものではなく、辰砂という鉱物を追い求めた名もなき人々によって打ち立てられたのです。空海はそのアップデートを行ったと言えます。この二つの時代を結ぶ事情は何であったのか。

言い換えれば、ある古代の集団が辰砂をターゲットに追い求め大規模な移動を繰り返していた可能性があります。辰砂自体から何かしらの価値を見出すこと自体は縄文人に由来するでしょうが、おそらくこの探査の過程ではその価値の意義が変質しています。一元的に規定はできませんが、一つの可能性としては厄除けです。今も神社のゲートである鳥居が辰砂を使わずとも朱色に塗られているのは、ここから先が人々が住む世界とは異なる場所であることの標であり、同時に厄除けや穢れを祓うためです。それが辰砂自体に見出された作用なのか、朱の色自体に見出されたものかは不明です。ただし、朱の原料には使い分けがされていた痕跡も残っています。

古代日本における朱は、辰砂を精製した朱とベンガラと鉛丹があり、歴史的には辰砂とベンガラが広く普及していました。特にベンガラは旧石器時代から使用痕跡が発見されている最古の朱であり、縄文時代の朱の原料の大半はベンガラだったと考えられています。ただ縄文時代中期頃に入ると、一部地域で辰砂を精製した朱が使用頻度を高めていくことになります。ここから連なる弥生時代には辰砂は中国産を輸入して一部を賄っていた可能性があり、さらに古墳時代に入ると大半がベンガラとなり、辰砂の使用は限定的になったと考えられています。つまり、大きく見れば縄文・弥生・古墳の古代日本の三つの時代においては、大量に辰砂が使用されていたわけではないということです。これは視方を変えれば、在地の人々よりも、移民として日本列島に流入してきた集団の新たな信仰や価値観が、日本列島側の朱を変質させた痕跡とも言えます。

その痕跡が明瞭なのは、一部の集団が辰砂とベンガラを意図的に区別して用いていたことです。この理由は未だ私には分かりませんが、一つ考えられることは辰砂の分布自体が日本列島では限定的であったため、比較的産出量の豊富なベンガラを顔料とする使用例が全国規模で広がった可能性はあります。実際、辰砂の産出がない東北では、ベンガラが顔料として使用されており、辰砂が西日本から流入してもベンガラを使用する傾向は揺るぎませんでした。一方で辰砂の産出地を抱えており、移民にとって主要な玄関口となっていた九州北部では、早くも辰砂とベンガラは弁別されて使用されています。この弁別は日本列島で生まれたものではなく、移民が大陸に居た時代に成立していた風習と言えます。その傾向が最も現れていたのが施朱です。

施朱とは、朱の顔料を墓の棺や遺体に塗布・散布する葬送儀礼のことで、これ自体は世界的に行われていたものです。施朱は日本側では縄文時代から存在していますが、弥生時代から古墳時代にかけての施朱では、一部地域で特徴的な風習が見られます。それが埋葬者の遺体の頭胸部にだけ辰砂を精製した朱を施し、それ以外にはベンガラを施していたのです。この特異な風習は起源は九州の東シナ海沿岸部に始まると考えられ、そこから九州内陸部を経由して瀬戸内海一帯に広がったと考えられます。この過程で関連集団に辰砂の需要が現れるのですが、この時代は中国側からの輸入によって大半を賄っていたと考えられています。

この風習自体は西日本の九州から瀬戸内海を経由して関西にまで広がっており、こうした動きは東日本とは異なるものでした。ゆえに、西日本側で活発になる首長を埋葬する古墳の出現が始まった時代から、既にこの風習が取り入れられていたことが判明しています。そしてこの新たな風習の拡大は加速的に起きており、3世紀頃の時点では九州南部を除く西日本全域、関東、東北南部に至るまでの広範囲な地域が施朱の風習を行っています。この過程で需要が増大したのが辰砂で、全てが輸入ではなく、一部は国産であることが明らかとなっています。このような基本的な概観が古代日本に存在したのですが、実は辰砂の需要がさらに増大する時代がありました。それが古墳時代の後期と仏教伝来の時代です。

これは古墳時代後期に入ると、新たな鍍金技術が普及した影響で水銀の需要が増大したことに関わります。水銀は乳白色の液体であるため、一概に朱の原料とは言い切れず、黒色に変化することもあります。また金を溶解してアマルガムを作り、青銅を金色に変化させることもできます。特に青銅を金色に変化することのできる魔力が人々を魅了し、後の仏教伝来以降に朱の歴史を大きく変様させることになります。なぜならば、仏像の鍍金工程には水銀が欠かせない材料だったからです。これは青銅製仏像の造立が日本仏教の本場となった奈良を中心に盛んになると、水銀製錬のための精製辰砂需要が爆発的に増大したからです。

つまり歴史的な痕跡から見れば次のようになります。古代日本史と呼ばれる縄文・弥生・古墳の三つの時代軸に限定すれば、辰砂とベンガラは西日本では同時に使用されるも、全体的にはベンガラの比重が高いことが想定され、辰砂は限定的な用途で使用される時代が長かったと想定されます。その時代状況が、仏教伝来以降の需要増大で変化したということです。

ただしこれは仏教伝来が辰砂の動向を作り上げたというよりも、それ以前から歳月をかけて準備されていたことを示唆しています。そうした朱の原料となる辰砂の古代史を考察する上で注目すべき地域があります。それが九州の熊本県菊池川流域です。

菊池川流域には、全国的にも稀有な装飾古墳と呼ばれる墳墓が点在しています。古墳は墳墓の形体の一つですが、その歴史変遷や種類は極めて複雑です。後に時代の呼称として古墳時代と日本で呼ばれるようになり、流れとしては縄文時代→弥生時代→古墳時代となりますが、実際にはそれ以前の時代にも古墳と呼び得る墳墓は造営されており、この辺りは学者によって見解は異なります。ただ古墳には種類が多くありますが、装飾古墳と呼ばれるものの大半が九州に密集しており、中でも菊池川流域に集中する傾向にあることは注目点です。

装飾古墳は彩色古墳とも呼ばれており、特徴は石室や石棺の内壁に色彩豊かな彩色で文様や絵画が描かれていることです。これまでの考古学の推定では4世紀末頃に突如出現し、6世紀に最盛期を迎えて7世紀頃まで造られた古墳に位置付けられます。この装飾古墳の衰退は6世紀の仏教伝来と深く関連している可能性があり、個人的にも仏像造立と深く連動していると考えています。ただ4世紀末以前から、中国側の『魏志倭人伝』が記しているように日本側での辰砂の存在は確認されていることも忘れてはなりません。さらに縄文時代後期の辰砂関連遺跡などを考えると、この時代は辰砂の新たな価値観に基づく使用方法が生まれた痕跡と言え、縄文や弥生の時代に辰砂の価値が低かったと見ることは誤りです。そして装飾古墳は広義には壁画が描かれた古墳と言われており、メインは九州の熊本から福岡ですが、それ以外にも歳月をかけて広がっていき、東は茨城や福島などの地域にも点在しています。

ちょうど昨年に発表された最新結果によると、全国で装飾古墳に位置付けられる古墳の総数は849です。そのうち九州だけで448、熊本だけで212があり、菊池川流域には131も密集しています。大きく見れば、熊本には全国の4分の1の装飾古墳が集中しており、菊池川流域がその比重を高く占めています。昨年5月頃の新たな発表を受けて、その夏に菊池川流域を巡りましたが、この地域で装飾古墳が展開されていたのは事実と言え、九州側の移民や在地の人々がこの風習を変様させながら、北中部の菊池川流域で研ぎ澄ませた可能性があります。

興味深いことは、この装飾古墳の分布は九州南部には影響しておらず、北部から中部にかけて広がっていることです。これは南部側にはこうした葬送風習を採用しない固有の部族が存在したことを示唆しており、文化圏として九州南部にまで装飾古墳が影響を与えることができなかった歴史を語っています。そしてそこから西日本にかけて拡大した装飾古墳の源流は、おそらく九州北部で移民によって生み出されたものであり、それが土着化する過程を経て関西にまで到達したことが考えられます。視方を変えれば、こうした風習を獲得した特定の人々が関西に向かって移動した痕跡とも言えるでしょう。

このように、装飾古墳という朱の使用と葬送儀礼の風習の存在は、古代日本における移民の姿を彷彿とする重要なファクターです。この観点を踏まえた時、続いて問題になるのはこの風習を広めた主軸を担った存在です。後に四国の香川で誕生する空海まで結ばれる見えないラインは、古代に準備された朱の道とも言えるでしょう。