C:\SHITSURAE\> TYPE SJ264.TXT

SJ264.TXT2025-12-2635KB

年の瀬に、一年を振り返るLooking Back on the Year at Its Close

今日は急に冷え込み、凍えるような寒さの中ですが、街は年末年始に向かって静かになり始めています。今年も色々なことがありましたが、自分にとって何が大きな気づきだったかを考えながら、来年以降に向けての立ち振る舞いなどを思案している中で、ふと一つ気づいたことがあります。

それは、社会や政府、あるいは家族までを含めて、「他なるもの」と自分の人生を重ね合わせてはいけないということです。どこで暮らそうとも、現代を生きる私たちは不満を抱きがちな世界に生きており、実際、生活もままならない状況に落ち込む人が多数いる中では、そうした不満を総合的に解決するためには、他なるものである他者、家族、社会、政府、世界を変革することこそが、唯一の解決策だと見なしてしまう癖を持っています。

しかし一方で、今年の後半頃から思索を続けていますが、「自分自身を変革することこそが第一であって、他なるものを変革することは実は重要ではない」ということ。これにふと気がついたのが、ちょうど秋頃でした。そこから数ヶ月に渡って、そのことについて多角的に思案を深めながら、歴史的に先人はこの問題をどのように考え、その上で、どのように生きていたのかを自分なりに辿ってきました。そうした日々を送っていると、これまでにあまり感じたことのない不思議な感覚を抱きました。

それは、社会あるいは世界がいかなる状況であっても、自分自身をしっかりと見つめて軸を立て、自らのもとで心を収め、ブレない状態を研ぎ澄ましておくことによって、他なるものの動揺に全く左右されず、日々、自らが為すべきことを尽くすことが可能になるということです。そして体感としても理解したことは、この状態を自ら創造することによって、現代では避けられないストレスや不満などを抱えずに、静かながら熱の貫通した日々を丁寧に過ごすことができるということです。何より私は、創造力とは単に作品を作ったりするためだけにあるのではなく、むしろ自らの人生を創造することにこそセンスが問われるのではないかと感じます。

面白いのは、こうしたことは冷静に考えると当たり前に思えることです。実際に古今東西の優れた先人は、大抵これに近い回答に行き着いていることは、そうした人々の言葉からも察せられます。だからこそ重要に思えるのは、歴史は外観こそ発展しているように見えるが、精神的な側面を見ると全く発展しておらず、人類の数が増えたり文明の技術が変わったりしたとしても、人間個々の精神という観点で見た場合には、成長どころか後退することの方が圧倒的に優勢だという点です。しかも驚くべきことに、この後退は時代を経るごとに大きくなるという不可思議な逆方向への動きを持っています。つまり、世代を経ることで人間は人間から遠のいていくということです。

ゆえに歴史の重要性を理解している人々は、歴史を遡れるだけ遡り、人間の精神が溌剌と生きていた理想的な時代を見つけ、そこを洞察することによって他の時代を相対化し、なぜ人間は与えられた生命を全うできないのかという問いを考察していきます。これは同時に、時代の動きを見極めていくことになるわけですが、このアプローチは私にとっても非常に重要で、実際これは正しい方法だと思います。ただ、同時にこのアプローチによって面白いことが浮上してきます。それは、どれだけ時代が進み、人類が増え、テクノロジーが進歩したとしても、人間の精神はこうした外界の潮流と比例して進歩しないということです。

むしろ、外界を作り上げること自体は確かに重要ではあるのですが、それが重要だと言い得るためには、まず第一に私たちは人間だという理解が基盤に据えられるべきです。このようなことは当たり前で馬鹿げていると聞こえるかもしれませんが、現に現在の外界である世界システムは、この基本条件を前提にしていません。人間が人間である以上、自分たちの精神をしっかりと打ち立て、己の心に従って生きるということを為すことができないのであれば、この世界に生まれてきた意味を理せず、何も果たさないまま生涯を終えてしまうことになります。事実、誰もが感じているでしょうが、人々は生涯を通じて社会的使命だけは果たしていますが、人間的使命を果たしていません。言い方を変えれば、資本主義ではなく、資本家への使命は果たしていますが、そこへの労力で心身が疲弊してしまうため、自らのことを鑑みる機会を持つことが困難です。

今朝も電車に乗る際に、小さな赤ん坊を抱えた若い母親がいたのですが、赤ん坊が泣いているにもかかわらず、母親はその赤ん坊越しにスマートフォンを見つめたままでした。そして赤ん坊が泣き止まないと、スマートフォンを見る姿を変えずにその状態で立ち上がり、ただ体を揺らすという行為を行っていました。こうした人々は、赤ん坊が泣くのは、母親が自分を見ておらず、その先にあるスマートフォンの画面を見続けているからだということが分からない。しかも、泣いたからといって、マニュアル通りに立ち上がって揺らすということしかやっていないことに、私は驚きました。このような人たちが子供を育てると、人間の精神は世代を経るごとにどんどん劣悪になって当然です。いや、このような人々に子供を育てる力も責任もあるはずがない。あまりに無責任な姿を見て驚くと同時に、システムへの自己家畜化はここまで末期状態に入ったかと思わずにはいられませんでした。

なぜならば、子供に責任はなく、しかも子供は親を選べないからです。親がしっかりとしていない限り、子供が生きる意味や、自らが自らの人生を通じて到達すべき境地、そして果たすべき使命に至る可能性はゼロに等しくなります。実際、昨今日本で「親ガチャ」という言葉が広がりました。この「親ガチャ」というのは、日本によくあるカプセルがランダムに出てくる「ガチャガチャ」と同じ発想で、「子供は親を選べない。自分がどのような親に当たるかわからないのは博打と同じだ」という考え方を若い世代が持っていることを明確に表しています。

実際、それはある意味ではその通りです。特に現在のように、もはや親が子供自体を見ることさえできなくなっている時代においては、どのような親のもとに生まれるかということは、これまで以上に子供の一生を決定する最初で最後の賭けとなります。子供を見ずにスマートフォンを見る親が、子供が何を求めているかに対する答えは、スクリーンの中に全て書いてあると考え、それをマニュアルにして実行することで「自分は子供に対する責任を果たしている」と言い放つところまで劣化してしまっているのです。

しかし、同時にその源流にあるのは彼ら自身の親でもあり、そして彼ら自身が「自分自身の意志で生きていこう」とすることを、生涯を通じて一度も決意してこなかったことの集積だとも言えます。実際、私が見ていて感じることは、大前提に子供を見れていない人たちは、必ずその夫婦、つまりパートナー自体を見れていないということです。だから子供を見れていないのは当然なのですが、なぜこうしたことが起きるかというと、自分自身を見れていないからです。要するに、自分自身との向き合いを放棄したところで安易に人生を進めてきた人々が、同じような境遇の人たちと出会って結婚し、子供が生まれる流れを続けていくことによって、世代ごとにどんどん精神的な劣化が起こるということです。彼らは生きることの痛みを知りませんが、社会的に生きることの痛みだけは知っています。

しかも、そこには時代ごとの技術的・文明的な進歩が加速的に起きていきます。当然、自分自身の軸を持っていない人々、そうした向き合い方をやってこなかった人々は、この外的な潮流を自分自身のアイデンティティとして同化させてしまいますので、外界が動けば自分たちも動くという具合に、もう完全に外界の動きに人生も日常も翻弄されてしまいます。こうして起こることはシステムへの自己家畜化ですが、この最大のリスクは、彼らが自らのアイデンティティとして同化させているそのシステム自体が瓦解・崩壊すれば、彼らも終わるということです。

何が起きているかというと、自分自身の人生の運命を「他なるもの」に完全に委譲しているということです。アウトソーシングならまだ辛うじて意思の残留程度はあったでしょうが、委譲は全面的に自らの責任を放棄することですから、これこそ人間が生きる上で一番やってはいけないことです。ですが、こうしたことが世界レベルで起きている現状を見つめていると、違和感を超えて、もはや手がつけられないところまで来てしまったという感覚があります。

特に、この10年ほど日本で感じてきたことは、人と目が合うことがなくなったということです。それ以前は、街を歩いているだけでも人と目が合ったものですが、この10年ほど、街で人と目が合った記憶がないというレベルまで落ち込んでいます。人と人の視線の交差には、微熱があります。その微熱は人間関係の発露する本源にあるものなのですが、私は活気のある街はこの微熱の交差が無数に生まれているからだと考えています。つまり、活気のある街では、人と人の目が合い、その視線の交差によって生まれる微熱の摩擦が、隅々で同時多発的に起きているということ。逆に言えば、この視線の交差が冷めれば、街は活力を失って死体となります。現在の日本の東京や大阪などの都市は、その典型例です。

実際、最近父親と話していて、「父親が自分の年代だった頃、人々は電車の中で何をしていたのだろうか」みたいな話をしていました。現在では十中八九、誰もがスマートフォンの画面を見て、ほぼ例外なくゲームやソーシャルメディアに明け暮れており、車内を眺めている人もなければ、本を読んでいる人を見掛けることも皆無に等しい。しかし父親の記憶だと、当時はスマートフォンやモバイルのゲーム機もありませんでしたから、文庫本を読んでいたり、あとは新聞を読んでいたとか、普通に喋っていたといった話をしていました。

こうして急速というか一気に人と人との関わり自体も断ち切られてしまった今、全ての責任をスマートフォンやソーシャルメディアに押し付ける以上に、私たちは根本的に「自分自身と向き合う」という、人間が人間として生きるために最も重視しなければならないことを見失ってしまっているところに原因があると感じます。現在主要ターゲットとして槍玉に挙げられているソーシャルメディアやスマートフォンを排除したところで、事態は変わりません。それは歴史を見ればわかります。仮に、それらが全ての原因だとすれば、直近の数百年の歴史を振り返ったとき、「なぜ誰もが自分自身の人生を果たすことができないのか」「なぜ自分自身と向き合って自分の使命を果たし、人をしっかり見ながら生きることができないのか」という問いに対して、答えに窮するはずです。なぜならば、そこにスマートフォンやソーシャルメディアがなくとも、結局そうしたことが人類規模で起きたことは一度もないからです。本当の問題は外界にはない。

つまり、外界にあるあらゆるものを変えたとしても、実は中身は何も変わらない。このことを、外界の変革を主張する誰一人として理解していない以上、もはや行き着く先は集団自殺です。なぜならば自分自身の内界は、外界とは関係がないからです。全く関係がないというか、そこは紐付けられるものではないということです。自分の人生を生きることは、世界がどうであっても、為すこと自体は変わらない。それだけは、いつの時代をどの場所で生きても変わらない本質です。

例えば、私が自分自身の為すことを今世で果たすという時に、それが160年前の江戸幕府が倒れて明治時代が始まる幕末であっても変わらず、江戸時代でも戦国時代でも、もっと言えば縄文時代でも弥生時代でも変わりません。無論、その時々に自分の為すべきこと自体は、外界から見れば変わっていきますが、内界として見た時に自分自身が果たすことは変わりません。これについては、誰もがそうです。

ゆえに、21世紀は大きく見ると様々な潮流が起きると思いますが、その潮流はほぼ全て外界でしかない。むしろ、その過程で人生の意味を膨大な数の人々が失って、絶望の淵、あるいは荒廃の淵に堕ちますから、必然的に宗教と哲学が希求されることになります。なぜならば、この宗教と哲学は、そうした人々に対しても生きる意味、あるいは人生の意味を見出すためのツールとして提供することができるからです。この時代が本格的に幕を開けるのは、もう少し世界が混乱した後の話でしょうから、思うに2040年代頃から、誰もがわかる形で本格的に始まっていくと思います。しかし、2030年代という、恐らく人類史上誰も経験したことがない世界が到来する中で、私たちは現在のように外界と自分たちの人生を同一化してしまっていたり、システムへの自己家畜化をどのような強度であれ持っていたりするならば、この激動の時代において共倒れするリスクが高いということです。

そして次の時代の共倒れが意味するのは、その先に進めないということです。当然、自分自身の使命を果たすことも、自分自身の人生を生きることもできない。これこそが最大のリスクだと捉えるならば、自分自身の人生を考えるというよりは、先人が向き合ってきた人間の本質を真っ先に熟知して、それを自らの日常行為の中で実際に為し続けることへの準備が必要なはずです。

個人的に現代の重要な準備というのは、確かに収入源や保有通貨の世界的分散や、仕事、居住地の分散、あるいは日本で言えば、いつ巨大地震が起きてもいいように準備しておくなど、様々なものが要求されますが、何より重要な準備とは、「自分はいかに生きるか」ということに対して自分なりに答えを見つけておくということです。この答えを見つけておくことによって、どのように外界が揺れ動いたとしてもブレませんから、自分の答えを持っているか否かということは、実はお金を持つよりも、私たちが生きていかなければならない今後の時代を生き抜くために最も重要なことなのです。

そうした視点を持って、日々自らを研ぎ澄まし、そして自分が為すべきことを、己を尽くして為すということです。この「己を尽くして為す」ということは、何も一般的に言われるような大層なことをする必要はない。ここがよく勘違いされるのですが、人にはそれぞれ適性があるからです。現在は、これを否定したがる傾向にありますが、適性があるという事実を認めなければなりません。あるいは、自分が現状引き受けている社会的なポジションがあるのであれば、それが例えば国家運営の官僚であっても、宗教的な指導者であっても、何らかのテック企業に属していたとしても、例えば大学の教員だったとしても、デジタルノマドで動き回っていたとしても、己を尽くして為すことに関しては全く変わらない。

為すべきことを己を尽くして全うすることに関しては、誰も変わらないのです。そしてこれは、「これがいい、あれが悪い」という職業によって肯定・否定できるようなものではない、なぜならそれ自体が「他なるもの」の価値観でしかないからです。そうではなく、その人それぞれが今与えられている、あるいは引き受けている使命を、己を尽くして全うすることができるか否かだけです。頭で考えれば混乱するような問題でしょうが、それほど難しい問題ではありません。ただ、この「己を尽くして今の職務を全うする」ことを、今の人たちは言い訳ばかりが達者になったため、なかなかできなくなってきたということです。

ですが、ここをしっかりとできない人間が、どうして人生を全うできるというのか。現状がどのようなものであれ、自分が日々為すことを己を尽くして為す。まずはここを徹底することによって、その先が初めて開かれてくるのです。

外界がどれだけ動揺しようとも、あなたが揺らぐ理由も根拠もない。新たな年を目前に控え、冷え込み始めた風を浴びながら、ふと、今後の人生の果実を発見したように思えてなりません。