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title: "TM MAGAZINE Vol.6 社会優等生が世間の病｜郷愿は徳の賊"
headline: "社会優等生が世間の病　郷愿は徳の賊と説いた安岡正篤と『論語』"
description: "郷愿（きょうげん）とは角を立てず社会に好かれる偽善的な優等生であり、安岡正篤は『論語』に拠り彼らを徳の賊と説いた。国つ神計画研究所は弥生人の起源と西遼河の興隆窪文化、KINEMA 2400は日本映画史上最高の俳優・杉村春子を論じる。"
url: https://takahiromitsui.com/mail-magazine/vol-6
language: ja
published: 2026-06-02
updated: 2026-06-02
author: "Takahiro Mitsui (三井崇央)"
author_url: https://jihanjinko.com/about/tm
site: "TM MAGAZINE（三井崇央の週刊メールマガジン）"
publisher: "ジハンジンコ株式会社"
issue: 6
sections:
  - series: "思想の森"
    title: "安岡正篤が説く郷愿は徳の賊　角を立てない優等生が世を蝕む"
    summary: "郷愿（きょうげん）とは角を立てず社会に好かれる偽善的な優等生で、安岡正篤は『論語』に拠り彼らを徳の賊と説いた。"
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  - series: "国つ神計画研究所"
    title: "弥生人の起源は西遼河の興隆窪文化　遼河文明と三内丸山遺跡"
    summary: "弥生人の遺伝的基層は西遼河流域の興隆窪文化に始まり、遼河文明は気候変動と異族襲来で終焉して人々は四方へ離散した。"
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  - series: "KINEMA 2400"
    title: "杉村春子は日本映画史上最高の俳優　小津安二郎の「組」が見出した演技"
    summary: "小津安二郎の厳格な様式美に生命を吹き込んだのは新劇出身の杉村春子であり、彼女こそ日本映画の歴代最高俳優である。"
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# TM MAGAZINE Vol.6 社会優等生が世間の病｜郷愿は徳の賊

2026年6月2日発行　著者：三井崇央

## 思想の森

儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。\
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。\
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。

***

戦後政財界のフィクサーとして、多方面に影響力を誇った儒者・安岡正篤。僕が日本史で最も敬服している人物ですが、この混迷の時代を見抜いていたかのような言葉を数多く残しています。

安岡は現代の世間の病として、「流通と忠信」「進取と廉潔」「儇狡と朴直」「文法と道議」「形迹と心術」「和同と狷介」という概念を対比させながら、いかに現代人の心が退廃したかを論じ、人々が生死を彷徨う混乱に帰結すると論じています。

明治以降、日本人は儒学を教わる機会がなくなったため、難しいことを言っているように思えるでしょうが、真意は単純明快であり、僕たちが冷静さを取り戻すためにも、儒学を学ぶことは不可欠です。そこで今回は、僕たちが理解できる言葉で見ていきます。

彼が述べたのは、以下です。

> 今の風俗の患は流通を務めて忠信を薄んず。進取を貴んで廉潔を賤しみ、儇狡を重んじて朴直を軽んずる。文法を譏して道議を略し、形迹を論じて心術を遺れ、和同を尚んで、狷介を鄙しむ。その習染は已に久しい。郷愿はまことに徳の賊である。今日人の上たる者にはただその誠のないことだけが心配である。いやしくも風俗の振作を誠心からすれば、天下は必ず共鳴して呼応するものである。
>
> — 安岡正篤『伝習録』

「流通を務めて忠信を薄んず」とは、世渡りばかりを考えて、相手と真摯に向き合う真心と信義を失うことです。誰にでも好かれ、どこでも通用する能力を追求し過ぎるがあまり、汎用的な問題対処は得意だが、特定の相手や信念に対して腹を据えて尽くす誠実さや、簡単に曲げない信義などは希薄になるということです。

多くの人にとって、学歴至上主義、安定志向などは避け難いことでしょうが、こちらにばかり偏ると、一つの仕事を生涯に渡って取り組む気概は生まれないということです。八方美人的な生き方は確かに万人受けしますが、誰に対しても角を立てない代わりに、誰に対しても本気で向き合わない証拠です。広く浅く通用する生き方をし過ぎると、深く一人に尽くす忠信が痩せ細ります。安定の時代ならまだしも、これまでのルールが通用しない混乱期に入った途端、彼らは足場を失い、気づけば周囲に誰もいない孤立を招くという教えです。

AIと無人化社会の本格的な到来期を生きる僕たちこそ、この言葉を深く受け止める必要があります。なぜなら、「流通」はAI・無人化が大きく代替していき、人間が「忠信」に励む生き方へ転換しなければ、『サピエンス全史』などで知られる歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが言う「無用者層」に陥りかねないからです。\
ここを脱却する鍵は、「たった一人に向き合う」ことに始まります。これは効率だけを追求してきた近現代が疎かにしてきたことですが、その代償として、たった一人のために己を尽くすような人間は、ほとんど見かけなくなりました。

次に、「進取を貴んで廉潔を賤しむ」です。進取はポジティブな積極性を意味せず、相手の隙をついて利用する立ち回りのことであり、それが清廉さよりも上位に置かれる問題を指摘したものです。清廉潔白は今や死語になりつつあり、多くの人が相手を差し置いて、自分だけが利益を進取しようとする状態が生じています。これは「自分さえ良ければよい」ことの現れであり、相手に与えることを選択肢から除外する自分本位の生き方です。

この状態は、現在が最も苛烈を極めていますが、必然的に足の引っ張り合いを生み出し、相互不信が蔓延し、誰も信じられなくなるため、その人の生涯も国家の未来も衰亡します。社会的生存のために相手を出し抜くことは仕方がないと人は言いますが、清廉潔白な姿勢を除去すれば、人間として何が残るのだということです。\
そして重要なことは、誰もが生まれてから死ぬまで清廉潔白なのではないということ。清廉潔白とは、そう生きると覚悟した瞬間に始まるものであり、死ぬまで常に清廉潔白であろうとする志に生きることです。それが本当の「生」です。

次に、「儇狡を重んじて朴直を軽んずる」です。「儇狡（けんこう）」は狡猾のことで、要領のよさや、相手を出し抜くズル賢さばかりが重宝され、朴直、すなわち自分に正直に生きることが軽く扱われることです。\
「正直者が馬鹿を見る」という言葉は昔からありますが、今はその極地に位置しています。さらに現代の正直は、社会に対する正直（忠誠）へと変換されてしまい、自分自身に対する誠実、正直を徹底しようとする人は稀です。正直とは、社会や他者に向けて実行されるものではなく、内面的な自分自身の問題でなければなりません。

「文法を譏して道議を略し」とは、法制度を批判したフリや、社会を論じたフリをすることは誰もが長けているが、では何が善いのかという重要な議論は無視されることです。今も、知識人と呼ばれる人々がマスメディアやSNSで根拠の薄い物言いを重ねる光景は珍しくありません。加えて個人の発言力が高まったことで、同じことが誰の身にも起こりうる時代になりました。そこには、未来に対する責任や創造が抜け落ちています。

戦前の場合で言えば、軍国主義を賛美し、大本営の発表する嘘を肯定していた知識人は、高らかに「鬼畜英米」を叫んでいましたが、昭和天皇の玉音放送が行われた直後から、「自分たちは騙されていた」と宣言し、「親米親英」と「民主主義」を高らかに叫びました。\
1960年代後半の学生運動でも、象徴的な東大紛争に敗れた直後から、彼らはそれまでの闘争を「なかったこと」にして、翌日から「就職」を高らかに宣言し、文字通り、彼らが闘ったはずの悪を社会に配備する原動力となりました。\
同じことは、今回も起こります。今、大きな発言力を持って論じている人々が、「自分たちは騙されていた」と口にする時は、必ず来ます。

「形迹を論じて心術を遺れ」とは、見え方や体裁ばかりを論じていて、その人がどういう心で動いているかは問われないということです。注目を集めるための自己ブランディングもこの類ですが、その人が自分自身と真摯に向き合っているか、その上でどのような理想を持ち、どう生きているかは全く問われません。

「和同を尚んで、狷介を鄙しむ」とは、場の空気に合わせることだけが尊ばれてしまい、全員を敵にまわして孤立してでも、筋を通す者は煙たがられるということです。「狷介（けんかい）」は優れた言葉で、自分との内省の果てに至った意志を守り、それを行使する態度のことですが、これこそ儒教の文脈での「真の自由」であり、江戸時代や明治初期頃までは、こうした人格者がそれなりに日本に居ました。これが日本本来の自由の定義です。

これらを述べた後、安岡は儒教の聖典である『論語』に由来する一句を持ち出し、「郷愿は徳の賊である」と締めています。\
「郷愿（きょうげん）」とは、何も悪いことをせず、角を立てず、社会に好かれ、円満な人生を送る優等生のことです。ここで言う「優等生」とは、良い子であろうとするあまり、偽善に傾く人のことで、こうした人々は社会的に（特に官僚制の時代には）重用されますが、何の責任も背負わず、引き受けないため、問題は常に先送りになります。

「波風を立てないこと」を最高の善に据えるため、彼らの影響が強くなる官僚制社会下では、善悪の基準自体が骨抜きになるということです。ゆえに、「徳」という孔子以来の儒教が最も重視してきた人間の至高の善は、優等生によって盗まれると孔子は論じました。言い換えれば、明らかな悪は警戒できるが、本当の問題は善人の顔をした偽善者であり、これが警戒されないまま全体を蝕み、最後には必ず崩壊するという二千年以上の教です。

そして安岡は、「現代の急務として、また名器の太濫、選用の太忽、求効の太速という三弊がある。」と括ります。\
「名器の太濫（たいらん）」は、官僚・役人の甚だしい出鱈目。「選用の太忽（たいこつ）」は国家・会社・組織などの人事の悲惨な間に合わせ。「求効の太速（たいそく）」は速効を求め過ぎることです。この三つの弊害により、トップが腐敗するため、人心は荒みます。ここでの「太」は、過度・過剰ということです。

激動の時勢を生きる今、儒学から多くを学び、再び日本人が責任を取り戻し、自らの生を全うすることが、未来のために欠かせません。僕は常に、日本は西洋ではなく、日本人は西洋人ではないという当たり前の立場から、明治以降の近代化（西洋化）に一貫して批判を向けてきました。日本人に託された使命は、西洋に近代を突き返すことだと信じています。言い換えれば、大航海時代以来続いた五百年の覇権が終わりに近づき、その特権を手放すことへの恐れから足場を見失いつつある西洋に、近代の幕引きを告げるのは日本人ではないか、ということです。

僕たちにとって馴染みの薄い西洋的なものよりも、馴染み深く、深く感激できる儒学から多くを学ぶ方が、はるかに良いはずです。それが日本人が再び復活する一歩であり、今後数十年をかけて、二十一世紀後半に復古するための道となるでしょう。

心から生を全うし、息を引き取る瞬間まで闘い抜いた者の意志や想いは、絶えることなく世界に宿り、やがて後継者が現れると憑依します。歴史とは、文献に記されたものではなく、この「見えない」意志の継承によって育まれてきたものなのです。

## 国つ神計画研究所

統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。\
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。\
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは？\
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。

***

「縄文人が弥生人になった」。\
こうした説明を、各地の考古学資料館では頻繁に見かけます。一体、「縄文人」が「弥生人」になるとは、どういうことなのか？

近年の遺伝子研究は、弥生人という存在が相当複雑なルーツを持つ姿を提起し始めています。弥生人はイコールで縄文人ではなく、また縄文人との混血も一部に見られるが、無関係の独立した種族でもあり、複数の多層的構造を有しています。

その最初期のルーツに位置しているのが、興隆窪文化（こうりゅうわ）と呼ばれる謎の古代文明です。紀元前6200-前5400年頃、現在の内モンゴル東南部から中国の遼寧省西部に広がる西遼河流域に現れた興隆窪文化は、弥生人の遺伝的な基層を作った「はじまりの地」と考えられます。\
その後、この興隆窪の人々は各地に分散しますが、残った者たちは遼河文明と呼ばれる流れを築きます。ここでは、時代軸と簡単な特性を見ておきます。

◯興隆窪文化（前6200-前5400頃）\
中国最古の「玉」の装身具（耳飾りなど）、龍を模った遺物が出土。玉の装身具は日本側でも縄文時代から祭祀の現場で活発に使用されていますが、龍は弥生時代に日本に伝来。\
習俗としては、キビやアワなど雑穀栽培を始めた基層集団であり、水田稲作は持っていません。また、環濠（周囲に堀を巡らせた形式）を備えた計画的な集落を、早くから営んだ集団でもあります。のちの弥生集落の環濠と一本の線で直結するわけではありませんが、定住農耕社会が共通して選び取る集落形式として、響き合うものが見て取れます。

◯趙宝溝文化（前5400-前4700頃）\
雑穀農耕を軸とする畑作と、狩猟採集を複合的に行っています。幾何学模様や、鹿・猪・鳥を神格化したような精緻な線刻画が施された土器が出土しており、のちの紅山文化へつながる祭祀的な信仰が育ち始めていたことが伺えます。\
実際、弥生人は絵画土器と呼ばれる習俗を有しており、自らの起源、生活、ルーツの記憶を土器に描いています。この絵画は縄文時代に見られないものであり、また縄文時代の動物信仰としては、猪・蛇などが多く見られますが、弥生人は鹿・鳥を信仰対象に据える特徴があります。

◯紅山文化（前4700-前2900頃）\
個人的には、弥生人の文化・精神基層を形成した集団だと見ています。以前までの文化とは異なり、祭祀が開花し、女神を祀る部族の祭祀集団が台頭した可能性があります。\
当時、この地域は気候的に最も穏やかで、豊かな森と川に恵まれ、繁栄の土台が整っていました。一方、徐々に気候変動により、従来の暮らしの維持が困難となる時代でもあり、部族は分裂しながらも、かつての記憶を共同で保持するために、春分・秋分・夏至・冬至など特定の時期に集まり、大規模な複合部族の祭祀を行ったと考えられます。\
弥生時代の女王・卑弥呼は有名ですが、こうした信仰の源流に位置する可能性もあります。

◯小河沿文化（前2900-前2200頃）\
激しい寒冷化と乾燥化（砂漠化）が始まり、紅山文化を支えていた巨大な祭祀を維持できなくなり、崩壊します。紅山文化の象徴的な華やかな玉器や大型の祭祀建造物は姿を消し、人々はより小規模で実用的な生活へと回帰しています。\
この大規模集落から分散型集落への構造変化は、実は当時の日本でも見られた現象であり、気候変動が地球規模で起きていた証拠と言えます。\
この過程で、大規模集落時代に育まれた精神的紐帯を、どのように維持するかが問題となります。

◯夏家店下層文化（前2000-前1500頃）\
遼河文明の主軸が幕を下ろす段階です。気候変動がさらに過酷になる中、興味深いことに人口密度はむしろ高まっており、ここで社会構造が一変します。従来の遼河文明にはなかった崖や急斜面に集落を構え始める習俗が生まれ、周囲に頑丈な「石城（石積みの城壁）」を張り巡らせるようになります。また、武器を手にし、部族間で激しい生存競争や防衛戦を繰り広げる、緊張感に満ちた軍事社会へと変貌を遂げました。これは、気候変動に伴う異族の侵入を示唆しています。

◯夏家店上層文化（前1000-前600頃）\
その後、同じ西遼河の地に現れたのが夏家店上層文化です。性格は大きく異なり、農耕と牧畜を組み合わせた農牧複合の社会で、弥生時代の鍵となる「青銅器」という、銅にスズなどの金属を混ぜた合金で制作した祭祀具技術を発達させています。\
注目すべきは、この時期に文化の担い手そのものが入れ替わっている点です。紅山から下層期にかけて高頻度を占めた部族は、上層期では漢民族と関係の深い集団、モンゴル系を含む集団へ交代しています。つまり、遼河文明の故郷において、北東アジア系の古層の上に、東アジア系が重なる混成化が進んでいました。\
そしてこの上層期の文化こそ、弥生的な特徴を有しています。もしかすると、この集団が一気に南下し、日本列島まで渡来してきたのかもしれません。

大きく見ると、興隆窪から夏家店下層まで、紀元前6200年から前1500年頃にかけて続いた遼河近郊の文明と俯瞰でき、その主軸は最後に異族襲来によって淘汰されたと言えます。かつて大繁栄を遂げたローマ帝国も、気候変動と内部の腐敗が原因で、最後は異族ゲルマン人の襲来によって崩壊しました。

つまり、気候変動の悪化と、それに伴う異族襲来が遼河文明を終わらせた原因であり、これは世界中の文明に通底する終末のコードです。\
ただ、この壮大な数千年に及ぶ歳月は、遼河文明の人々を各地に離散させる動機になり、文字通り、四方八方に散らばっていきます。その一部が、複雑な過程を経て、やがて日本にも渡来し始めるのですが、ここで遼河文明の繁栄期から末期の状況に酷似する日本側の遺跡があります。それが、青森の三内丸山遺跡です。

縄文時代最大の大規模集落を誇る三内丸山遺跡は、紀元前3900-前2200年に栄えましたが、ある時を境に、集落を放棄して忽然と姿を消します。最盛期には数百人程度が暮らしていたとされ、残された空間からも相当繁栄していたことが理解できますが、面白いのはその後、彼らがどこに消えたのかが未だに分からないことです。

一方、三内丸山遺跡が放棄された辺りから、環状列石という石をサークル状に配置した大規模祭祀空間が登場します。これは北海道・北東北固有の習俗ですが、こちらも実態は解明されておらず、謎に包まれています。\
しかし、同時期に北東北各地の縄文人は、大規模集落をこぞって放棄しています。まるで過酷な気候変動の影響を察知して、生存に特化する仕組みに自身、家族、集団を転換させたように見えます。あまり語られない縄文人最大の特徴は、サバイバル能力です。

彼らは小規模に分散し、特に河川流域に転居していきますが、かつての大規模集落時代に育んだ他集団との精神的紐帯を維持するために、特定の時期になると環状列石に集まり、祭祀を行っていたと考えられます。\
事実、三内丸山遺跡の南方8kmの丘陵には、小牧野遺跡という巨大な環状列石が残っており、三内丸山に関わった集団が、分散後の共同祭祀を行う現場だった可能性を想起させます。

当然、彼らは大陸・半島側での変動を知ることはなかったでしょうが、同時期、気候変動と異族襲来により、海を越えた先の西遼河近郊では異変が起きており、後の弥生時代の幕開けに繋がっていったと考えられます。\
また重要なことは、弥生人はイコールで遼河文明の人々ではなく、基層としては保持しているが、かなり交雑しているということです。

2020年代初頭の研究では、単純に「縄文人＝土着」「弥生人＝北東アジア」「古墳人＝東アジア」と三層構造に分類されましたが、2024年頃から日本側の調査で、この単純分類に懐疑が挟まれており、弥生人の時点で「北東アジアと東アジア」の混血は相当進んでいたと指摘され始めています。

遺伝子研究から民族ルーツを解明する道のりは、まだ始まったばかりであり、今後、調査数が積み重ねられていく過程で大きく進展する未知の領域です。同時に、この解明には東アジア特有の国際情勢も欠かせません。\
日本列島を単独で見ることは不可で、ルーツを解明する場合、最低でも朝鮮統一は絶対条件となり、そこから北朝鮮側での考古学調査、中国を筆頭とする東アジア圏域の共同調査を何十年も行った果てに、ようやく実態が見えてくる世界です。つまり、ルーツ解明の最大の障害は、実は国際政治です。

僕たちは、どこから来たのか？\
この根源的な問いの答えに至るか否かは、いつの時代も権力者の思惑に委ねられているのかもしれません。

## KINEMA 2400

江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。\
現在、僕たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。\
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。\
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

***

どのように映画を辿っていけば良いか？

何かに取り組もうとする際、まずは自分自身が今、どこに立っているのかという現在地を特定することが先決です。地図なきままに走り出すと、必ずどこかで方向を見失うのが世の常ですが、映画も同じです。

手当たり次第に見る前に、オススメは「たった一人」の映画監督を最初に決めてしまうことです。このたった一人は、「何か良い」と感じた監督で構いません。徹底的に一人の作品を見続けると、同じ監督でありながら、時代ごとに異なる感性や表現、時勢の影響を受けた作品、製作会社の懐事情などに左右される姿が見えてきます。これが歴史であり、その苦悩を含めて今日に残る傑作があります。

たった一人の監督を選ぶ理由は、当時の日本映画界に存在した「組」制度があるからです。\
かつて特定の監督には、特定のスタッフが付く「組」の慣例があり、黒澤明の黒澤組、小津安二郎の小津組、成瀬巳喜男の成瀬組など、それぞれ才能ある人々が、監督の描く世界を表現するために持っている技術と熱量を注ぎました。

同時にこの時代の映画は、特定の監督が何度も抜擢したお決まりの俳優陣がいます。黒澤明の作品には、志村喬と三船敏郎が多く出演し、中後期からは仲代達矢と香川京子が重宝されましたが、この時代背景にあったのが、日本映画界の専属契約制度です。

時代背景としては、日本映画が勃興期に入る中、時代の需要に応える形で、会社は効率的に次々と映画を量産する必要がありました。限られたスケジュールの中で、高い芸術性を実現するには、当然、現場に入る段階で意思疎通をできている方が有利です。そこで自然発生的に生まれたのが、「組」でした。

当時は監督を頂点とし、カメラマン、照明、俳優などが一つの運命共同体を形成しており、ほとんど共同生活で制作していました。毎回異なる俳優を一から指導するよりも、監督が求める気配、リズム、美学などを阿吽の呼吸で実現できる俳優を使った方が、より深く、複雑な映像表現を実現できたからです。\
そのため、現代のように知名度と容姿だけで俳優が抜擢されることはなく、むしろ決定権は監督に強く依存していました。ここでは必然的に、監督と俳優の相性、さらにスタッフとの相性が要求されるため、おのずと特定の監督が特定の俳優を重宝するようになります。

その一例を見てみましょう。\
松竹大船撮影所の巨匠・小津安二郎は、彼特有の芸術表現を実現するために、演技する・演技したがる俳優を邪魔だと考えていました。その代わり、俳優には徹底的な「静物」としての厳格さが要求されたのです。\
この美学があったため、当時演技派として知られていた俳優陣は、小津作品では使われず、むしろ大根役者として卑下されていた不遇の俳優が、次々と小津に見出されていきます。

小津が俳優に求めたのは、映画に演技を持ち込むことではなく、ましてや俳優の自己主張でもありません。俳優は総合的な映像表現を実現するために必要不可欠な、ピースの一つになることが求められたのです。\
こうして不遇だった俳優の中から、小津作品を通じて出世する人々が現れます。代表的なのが、笠智衆と原節子です。

小津作品の精神的支柱として活躍した笠智衆は、小津の全54作のうち、何と52作に出演しており、戦前から小津の遺作に至るまで、ほぼ全作品に登場します。\
一方、戦後に入ると、小津は美貌だけで演技力がないと批判されていた原節子を見出し、6作品で彼女の魅力を開花させ、同時に戦後小津映画に欠かせない杉村春子を9作品で抜擢します。

個人的に、日本映画の歴代最高俳優は杉村春子だと思います。小津は相当な凝り性であり、卓越した審美眼の持ち主でもあったため、作中に登場する食器ひとつを取っても、必ず本物を使うことを徹底しました。\
出演者の中には、小津組では本当に美味い料理が食べられるから、わざと何回もNGを出したと話すほど、彼は本物にこだわったのです。\
つまり、映像表現に限らず、家屋、美術の一つひとつ、構図や流れの細部に至るまで、徹底的にこだわる小津映画は、ある意味、俳優にとっては最も難しい。特に「演技をするな」という小津の言葉を理解できる者は少なく、それでいて作品としての芸術性を実現しなければなりません。

こうした難問を小津自身が抱えていたため、当然ながら良い俳優との出会いは最重要でした。そうした中、出会ったのが杉村春子です。\
戦後『晩春』（1949年）から小津組に参加し、9本の主要作品を支えた杉村は、当時「新劇」と呼ばれた劇団の出身者であり、最大劇団の文学座を背負う大女優でした。

新劇とは日本特有の分類で、一言で言えば、旧来の伝統的な演劇（旧劇）である歌舞伎・新派劇の様式美や型への反動として、明治末期から大正時代に勃興した西洋近代のリアリズム演劇を、日本で実践しようとした運動に由来します。ただし、西洋近代とは言っても、新劇が主に吸収したのはロシア演劇です。\
中でもモスクワ芸術座は、ロシア文学が持つ登場人物の内面的なエゴイズム、嫉妬、俗物性などの複雑な心理を、自然な日常会話で表現するリアリズム表現の先頭に立っていました。

つまり、「演技」をする圧倒的な才能を持つ新劇界の大女優が、意外にも、小津に足りなかった決定的なピースとなったのです。この理由は、小津が極めて厳格な「型」で映画を構築するため、その極北の様式美の中に生命を吹き込むには、新劇のリアリズムで武装した杉村春子が必要だったからです。\
杉村は小津の意図を誰よりも理解し、何度も何時間も同じ演技を俳優にさせた小津が、唯一、何も言わず、全てを一任した全幅の信頼を寄せる俳優でした。

実際、小津の美学が求めていたものは、杉村春子の演技を見れば掴めます。おそらく多くの方が杉村の演技を見て、演技とは思わず、「あぁ、こういう人近所にいた」とか、「あぁ、祖母がそうだった」という記憶を重ねるはずです。これが、本物の演技です。

まるで昔の自分自身が関与した記憶を見ているように、杉村の演技は市中に生きる人そのものなのです。このような俳優は、日本映画史でも稀であり、圧倒的な存在感を誇ります。

そして特定の映画監督の「組」から見続けていくと、着実に映画を見る素養を育むことができます。特に現代人にとって壁になるのは白黒映画、そして最も困難なサイレント映画ですが、まずは無理をせず、1950-1960年代の作品群から始めましょう。

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執筆: 三井崇央
編集: TM MAGAZINE
発行元: ジハンジンコ株式会社

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