Vol.18
思想の森
儒学には、「修身斉家治国平天下」という考え方があります。
国家・社会・他者を変えようとする以前に、まずは自らの心を正す。
最初のコーナーでは、聖人の言葉に従い、今、何を、どう思っているのかをお伝えします。
今、暦法にハマっており、明治政府が財政的な事情から導入したグレゴリオ暦(現在の新暦)以前の、太陰太陽暦で最高精度を誇る天保暦を解読しています。
天保暦とは、幕府天文方が蘭書を自ら読解して取り入れた西欧の計算法を、それまで日本で育まれてきた中国由来の暦の歴史、そして江戸時代に日本化した暦術の中へ、巧みにミックスした日本独自の暦です。
高橋至時が『ラランデ暦書』の解読に命を削り、その仕事を実子・渋川景佑と、足立信頭が引き継いで『新巧暦書』にまとめ、それを土台に天保暦がつくられました。中国経由の漢訳書で西欧天文学を学んだ寛政暦の段階から、蘭書を直接読む段階へと、日本の暦学が一歩進んだ地点にあるのが天保暦なのです。
個人的にはグレゴリオ暦以降、日本が文明開化などと称して、崩れ去る最初の兆候が出たと見ているため、「グレゴリオ以前」に注目したプロジェクトを思案しています。
一般的に旧暦と呼ばれる計算方法は、基本的に天保暦のパッケージを参考にしたものですが、厳密には天保暦ではありません。理由は、あまりに計算方法が難しく、解明できないことが多すぎたからです。そのため、現行の旧暦は、かなり簡素化されています。
そこで私は、天保暦製作者の渋川景佑が残した古文献を、独自にAIと共に解読。彼固有の計算方法を数理技術で特定し、それを組み込んだグレゴリオ以前の暦法、つまり最も「日本的な暦」と言える天保暦を復古しようと試みています。
さて、ここで「日本的」という感性に触れておきます。天保暦は、古代の叡智に連なる中国暦を母体として、千年研ぎ澄まし、それを最終的に日本化した上で、最後に西欧の計算術を取り入れた、世界で唯一かつ画期的な暦法です。しかもその精度は、太陰太陽暦では歴史上最高度であり、実はグレゴリオ暦よりも精度が高いことで知られています。つまり、人類史上最高の暦だと言えるのです。
ですが、私は精度云々以上に、天保暦という性質が日本という存在にとって、最も心地よいバランスなのではないかと考えています。つまり、中国という古代叡智の巨頭によって生み出された技術を領有し、日本の場所において日本化する。それを千年育んだ上で、西の辺境の西欧をわずかだけ取り入れる。
このバランスが、日本にとって最も心地よいものだと考えれば、本来、私たち日本人は西洋の距離感として、ここまで戻らなければならないはずです。つまり、明治以降の西洋侵略による近代日本の強制は、明らかに過剰であり、代謝不全を起こしてしまっている。今、若者の多くがスマートフォン以前を求めて、香港の1990年代、日本の2000年代初頭的感性を求めているように、私は「グレゴリオ以前」の感性を重視し始めています。
つまり、私にとって暦法への関心は、単に暦の問題に限らず、歴史それ自体をどこまで戻して考えるか、という根本的な部分に関わります。なぜなら、暦というのは、いつの時代も権力者の都合によって変えられてきた運命を持つからです。
直近の例で言えば、ウクライナがゼレンスキー大統領のもとで、米国の意向でロシアとの決別を打ち出し、NATO、EUへの加盟を目指す中で、クリスマスの祝日をロシア正教会と同じだった1月7日から、12月25日へ変更する法案を提出。これに大統領が署名し、成立したのが2023年7月28日でした。
同じ年の5月24日には、ウクライナ正教会が、9月1日から修正ユリウス暦へ移行する決定を公式に発表。これにより、ユリウス暦の12月25日にあたる1月7日が公的な祝日ではなくなり、グレゴリオ暦の12月25日だけが公式の祝日となりました。国として12月25日にクリスマスを祝ったのは、2023年が初めてです。明治時代に日本が経験した悪夢を、今、ウクライナが克明になぞっています。
暦は為政者の思惑によって変わるもの。 日本側の象徴が、明治政府でした。
実は、明治5年まで天保暦が使われていたのですが、旧暦のままでは翌明治6年に閏月(閏6月)があり、近代産業システムを軸とする月給制へ移行したばかりの政府は、官吏への報酬を年13回支給しなければならなくなります。
ですが、新暦(グレゴリオ暦)を導入すれば、閏月はなくなって毎年12か月分で済み、さらに明治5年の12月が2日しかないことを理由に支給を免れるため、11か月分で済ませることができます。財政難に陥っていた政府は、このトリックを使い、グレゴリオ暦を採用して財政難を回避したのです。
明確に言えば、グレゴリオ暦が優れているから、日本が採用したのではない。政府の個人的な懐事情と、狡猾さによって、暦法が変わった歴史的瞬間だったのです。これ以降、グレゴリオ暦が使われるようになったのですが、産業社会システムと相性が良かったことから、今も使われています。
一方、江戸時代まで日本人は、7日間のうち5日勤務し、2日週末に休むなどという感覚など持っていません。休みは職業によって違い、また勤務時間なども今とは比べ物にならないほど短かった。つまり、江戸時代の人々と比べると、私たちがこの産業社会システム(グレゴリオ暦)によって、失ったものはあまりにも大きいのです。
人と人との関係や交流などの機会が、産業システムによって奪われてしまったと言えます。それらを取り戻すためにも、今後、個人が二つの暦に生きることが必要です。産業社会システムに配備されたグレゴリオ暦と、グレゴリオ以前の日本的感覚の双方を、一つの身体で同時に生きる。これは単に、時間感覚の問題ではありません。
このパラレルな世界を個々に生きることで、西洋との過剰な距離の見直しが促進されるようになり、ここから20年かけて、主眼の日米関係が刷新される重要な契機における準備となると考えます。
今、私たちが為すべきことは、人口動態から見て絶対に変わらない政治への要求ではなく、暦にあると感じる酷暑の夏終わりです。
国つ神計画研究所
統一国家や単一民族と、場所に生きる多元的世界。
どちらが正しいかではなく、相反共存する世界に誰もが生きています。
日本民族のルーツ研究を通じて、開かれてくる本当の日本とは?
古代日本・考古・神話・民俗・遺伝子・霊性など分野を統合し、独自の視点で日本を読み解きます。
先週、遺伝子の話を少ししましたが、そうは言っても具体的な実感は湧きにくいもの。そこで今回は、たった一つの遺伝子に焦点を置きます。ただ、その前に一つ興味深い話を。
現存する日本最古の文献と言えば、8世紀前半に編纂された古事記や日本書紀。ですが、そもそも遺伝子は古事記(712年成立)よりも古い文献です。いわば、編纂者のいない年代記が、私たち一人ひとりの体の内側に眠っている。
だからこそ重要なのが、遺伝子データを編纂する者なのです。かつて古事記制作プロジェクトが立ち上がった背景には、諸氏族が各々異なる伝承を信奉しており、統制が取れない事情がありました。そこで天武天皇は新時代の体制を志して詔を発布、今でいう国家プロジェクトとして始まり、やがて藤原不比等の強力なバックアップで完成に向かいました。
古事記編纂のプロジェクトリーダーは、序を執筆した太安万侶と言われてきましたが、今では後代の何者かが、彼の名を借りて序を制作したことが示されています。重要なことは、この上代の言葉を文字に翻訳し、読み手に伝えようとする際、想像を絶する苦難があったということです。
当時、使用されていた漢字は中国語を書くための道具ですから、字の一つひとつが既に大陸側の意味を背負っています。たとえば、倭語の「アマ」という音を書きたくても、「アマ」という音だけを表す字がない。「天」と書けば意味は伝わるが、それを読んだ人がアマと読むか、テンと読むかは決まらない。
逆に、音だけ拾って「阿麻」と書けば読みは固定できますが、今度は字面から意味が消えるうえに、字数が倍以上に膨らみます。安万侶が序で「難し」と言ったのは、その板挟みです。意味を取れば音が消え、音を取れば意味が消えて長くなる。どちらか一方では成り立たなかった。日本の音をどうやって文字に封印するかが、初期の時点で難問として横たわっていたのです。
だから編纂者は、一文の中で両方を混ぜるという、当時としてはかなり不格好なことをやりました。そして読みが分からなくなる箇所には、いちいち「この天はアマと読め」という注を付けて回った。あの注記の多さは、それをやらないと成立しない文章だったということの裏返しであり、ある意味では画期的な方法です。
一方、歌だけは全て音で書いています。歌は音そのものが本体で、意味に置き換えたら歌でなくなるからです。長くなるのを承知で、そこは音を優先した。この音という形のない文化を、形ある文字として翻訳する。これこそ編纂者の素質が問われるところであり、その後の数百、千年に関わる大事業だったのです。
ちなみに、日本書紀は逆の判断をしました。きちんとした漢文で書く、そのかわり音は基本的に捨てる。外に見せるための正史なので、体裁のほうを取ったわけです。同じ時代に、音を守った書と体裁を守った書が並んで作られている。
この感性が今、遺伝子の翻訳・編纂という形で再び起きている。特に遺伝子情報は西洋基準で長らく進められてきたため、プログラミング言語などと同様、英語ベースです。ですが、かつて古代氏族ごとに伝承や解釈が異なったように、その集団がどこに属するかによって、意味も解釈も一変します。
つまり、遺伝子解析の結果を受けて、それをさらに読み解いていく行為は、まさに古事記編纂者たちが突き当たった難問を、私たちが引き受けることを意味しています。だから、面白い。
ですが、これまでその読むための文法は、西洋で書かれたものしか流通していませんでした。しかも遺伝子情報の文法は、ほぼ例外なく白人ベースです。つまり、白人のために生み出された文字と文法を、無理やり非白人に当てるしかなかった。これは植民地主義の延長線と考えられる深刻な事案です。しかし、文法が違えば、同じ文字は違う意味を持つ。そこに、一度触れてみましょう。
取り上げるのは、COMT(カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ)です。簡単に言えば、ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンなど、神経伝達物質の分解を行う酵素を産生する遺伝子です。
そしてこの158番目のアミノ酸が、バリン(Val)であるか、メチオニン(Met)であるか。この「たった一か所」の違いで、酵素の働きは3倍から4倍も変わります。型は三つ。Val/Val、Val/Met、Met/Metです。
特徴をざっくり言えば、神経伝達物質の代謝が速いVal/Val型は、前頭前野のドーパミンが速やかに代謝されます。その影響で、平常・平和時の集中は散漫になりがちで能力を発揮しずらいですが、ストレス下では驚異的な力を発揮するタイプ。次々と未開の領域へ向かう新規探索性が強い代償に、一つのことに集中するのは苦手です。
逆にMet/Metは、ドーパミンが滞留する分、ストレスがかかると能力を発揮できなくなりますが、静かな場所では深く、一つのことに没入できる思索の力があります。
Val/Metは中間型で、両者を持った性質。この特性から、アメリカ国立衛生研究所(NIH)の遺伝学者デヴィッド・ゴールドマンは、この二型を「戦士(ウォリアー)と心配性(ウォーリアー)」と呼んで区別しました。Val/Val型が戦士の遺伝子、Met/Met型が心配性の遺伝子などとも呼ばれる由縁です。好奇心と没頭、探索と滞留。人の気質の根っこに関わる、スイッチの一つです。
興味深いことにドーパミンの回収は、思考を司る前頭前野ではCOMTへの依存度が高いことが分かっています。つまりこの遺伝子は単なる気質ではなく、「思考の仕方」そのものに関わってくる重要な遺伝子の一つです。そしてCOMT一つをとっても、集団ごとに決定的な差異がある。
ここを次週、読み解いていきます。
KINEMA 2400
江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。
現在、私たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。
先週、敗戦直後に東宝が、戦後最大の労働争議に至った流れを書きました。
では、なぜ映画界の労働争議に、米軍まで出動しなければならなかったのか。
その理由が「赤狩り(レッドパージ)」です。まず、冷戦の激化に伴い、占領軍GHQは日本における共産主義勢力の拡大を脅威と位置付けていました。その最中、1950年に朝鮮戦争が勃発。ここで占領軍が日本を完全統制する目標から、国内の共産主義勢力の抑止に舵を切ったとき、本当の意味で戦後史が始まりました。
そして実は、歴史的に赤が多いのが映画界だったのです。そのため、占領軍の指令を受けた日本政府・財界・右翼が結託し、日本共産党員と同調者(シンパ)を弾圧。大規模な公職追放・解雇弾圧事件が連発します。この最中、日本映画界からも、共産党員とその周辺の映画人が次々と追放。山本薩夫、今井正、亀井文夫、伊藤武郎という先鋭的な映画人などが、撮影所を追われる事態となったのです。
ですが、当時の日本人の活力は半端ではありません。撮影所を追われた彼らが、同じ年に設立したのが、新星映画社でした。この資金の出所は、実は東宝。争議の解決金として東宝から支払われた1,500万円を元手に、反抗精神豊かな映画人が立ち上がります。
しかも、その元手で山本薩夫が撮った『暴力の街』(1950年)は、何と製作費を上回る興行成績をあげます。これは共産党員の密接なネットワークを総動員したからです。続いて今井正『どっこい生きてる』(1951年)、山本薩夫『真空地帯』(1952年)など、骨太な社会派作品が、大手の外部から次々に出てきました。
一方、同じころ、まったく違う経緯で外に出た人たちもいます。
脚本家の新藤兼人(後に監督)と監督の吉村公三郎は、松竹で名コンビとして知られていましたが、1949年に手がけた三本が興行的に失敗し、次回作の製作を松竹に拒否され、さらに会社からコンビ解消を迫られました。そこで二人は、1950年3月に松竹を退社し、プロデューサーの絲屋寿雄、俳優の殿山泰司らと近代映画協会を結成します。
こちらは思想でも弾圧でもなく、企画が通らなかったから出た。ですが、この自主製作精神こそ、当時の映画人を支えた真の力なのです。こうして新藤は『原爆の子』(1952年)を発表。大映が企画に難色を示したため自主製作となり、北星の配給で世に出ました。主演の乙羽信子は、この映画のために大映を退社しています。
いわば占領軍側の都合による赤狩りと、制裁に萎縮した会社側の都合が絡まり、ここで反骨精神を持つ映画人が、次々と独立の活路を開拓し始めた。1950年代前半、日本映画に「独立プロ」という言葉が定着したのは、単なる潮流ではなく、まさに時代の象徴だったのです。
ただし、独立プロという言葉自体は、戦前からありました。日本映画の骨格となる牧野省三のマキノプロ、天皇と呼ばれた大スターの阪東妻三郎や片岡千恵蔵の独立プロなどです。ですがそれらは、トーキー(音声映画)の到来で設備投資がかさみ、大会社に吸収されていきました。
戦後のそれは、意味が違う。ここでの「独立」とは、大企業からの独立を指しており、政治的圧力、占領に対するNOを突きつける、文字通り命をかけた創造だったのです。本来のクリエイティブとは、今のように生ぬるいものではなく、わずかにでも踏み外せば、死の淵に堕ちるもので、そこから帰還した者だけが、次に進める過酷な世界でした。
ですが、この運動もほんの数年で退潮していきます。理由は、思想でも才能でもありません。先週お伝えした通り、大手が劇場を掌握していたからです。つまり、上映する場所がなかった。
この時代、独立プロでも作ることは、なんとかできる。カンパを募り、俳優がノーギャラで出て、機材をかき集めればいい。しかし完成したフィルムを、どこで客に見せるのか。実は、これこそが製作史における最大の障壁だったのです。何しろ、全国の映画館は系列に組み込まれており、番組は自社作品で埋まっています。独立プロの作品を、一週間もかけてくれる館など、ほとんどありません。
そこで彼らは、労働組合や映画サークルの自主上映に頼りました。公民館で、工場の食堂で、学校の講堂で上映する。それは志の高い運動でしたが、興行ではなく、持続可能でもない。特に、回収の当てが立たない以上、次の一本が組めません。しかも興行は、1950年代頃から、占領軍の意向を受けた右翼(児玉誉士夫)に動員された全国のヤクザ組織が関わるようになっていたため、共産主義系統の映画が上映される可能性は極限まで失われていったのです。
その筆頭格とし台頭したのが、三代目・田岡組長率いる山口組でした。
1954年ごろから大手が量産体制を完成させると、独立プロ運動は静かに下火になり、激しい社会的弾圧を被った影響もあり、多くの監督が、大手の仕事に戻っていきます。近代映画協会が生き残れたのは、新藤兼人が大手向けの脚本を大量に書き、その稼ぎで自分たちの映画を撮り続けたからでした。
ここまで見ると、日本映画史の底を流れる問いが、一つに絞られてくるように思います。
作る自由の話ではなく、上映される自由を巡る戦いだったのです。これが、後にも深いところで関わっています。
製作と配給と興行が一本の線で独占されている限り、その線の外にいる者は、何を作っても客に届かない。独立プロが最初にぶつかったのはこの巨大な壁であり、そしてこの壁は、60年代にも、70年代にも、形を変えて立ち続けます。
今のように、YoutubeやAmazon Primeで自作映画を公開する術はありません。その渦中で、先人たちが上映される自由を巡って激しく戦い続けたからこそ、映画は本気だったのです。逆に言えば、独立プロが普通になり、映画上映の自由が実現されると、映画は魅力を失う。この構造的な矛盾は、今のように配信の自由らしきものに浸る現代人を見れば、自明に思えます。
ここで効いてくるのが、以前お伝えしたATGです。なぜ、ATGは「1ヶ月間、必ず上映する」という条項をわざわざ第三条に書いたのか。あの一行の意味が、ここでようやく分かるはずです。
次回は、この壁に対して、60年代の作り手たちがどう挑んだかを見ていきます。赤狩りを越え、本格的に闘争の季節に入った最中、独立プロは次なる次元へ昇華されていったのです。