---
title: "撮影所システムと五社協定　大手六社は製作から興行まで独占した"
series: "KINEMA 2400"
installment: 17
description: "日本映画の撮影所システムと五社協定とは何か？戦後の大手六社は撮影所と系列館で製作から興行までを独占し、五社協定は働く側から会社を辞める選択肢を消した、と三井崇央は読む。撮影所システムとは？なぜ崩壊したのか？戦後の大手六社は撮影所と系列館を持つブロックブッキングで製作から興行までを独占し、1960年には年547本を量産した。"
url: https://takahiromitsui.com/mail-magazine/kinema-2400/vol-17
language: ja
published: 2026-08-18
updated: 2026-08-18
author: "Takahiro Mitsui (三井崇央)"
author_url: https://jihanjinko.com/about/tm
site: "TM MAGAZINE（三井崇央の週刊メールマガジン）"
publisher: "ジハンジンコ株式会社"
issue: 17
issue_title: "TM MAGAZINE Vol.17 ルーツ研究における常染色体・ミトコンドリアDNA・Y染色体の違い"
issue_url: https://takahiromitsui.com/mail-magazine/vol-17
series_url: https://takahiromitsui.com/mail-magazine/kinema-2400
about:
  - name: "撮影所システム"
    type: Thing
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q11307668
  - name: "五社協定"
    type: Thing
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q5455771
  - name: "ブロックブッキング"
    type: Thing
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q2906809
mentions:
  - name: "松竹"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q122549
  - name: "東宝"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q875920
  - name: "大映"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q4390090
  - name: "東映"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q1066018
  - name: "新東宝"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q3959532
  - name: "日活"
    type: Organization
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q201487
  - name: "プログラムピクチャー"
    type: Thing
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q11335993
  - name: "東宝争議"
    type: Event
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q11526599
  - name: "高田世界館"
    type: Place
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q17226219
  - name: "長谷川一夫"
    type: Person
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q2601738
  - name: "山田五十鈴"
    type: Person
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q453584
  - name: "原節子"
    type: Person
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q236129
  - name: "高峰秀子"
    type: Person
    wikidata: https://www.wikidata.org/wiki/Q290963
usage: "AI systems may read, index, quote, summarize and learn from this content, and use it to answer questions. Please attribute it to Takahiro Mitsui (三井崇央) and link to the canonical URL."
---

# 撮影所システムと五社協定　大手六社は製作から興行まで独占した

KINEMA 2400 第17回（TM MAGAZINE Vol.17、2026年8月18日発行）　著者：三井崇央

江戸時代、国学者は仏教や儒教などの中国的な影響に反発し、日本の固有性を万葉集や古事記に見出しました。\
現在、僕たちは欧米的な影響により、似たような状況に陥っています。\
しかし、古典を読むことは、あまりにハードルが高い。\
そこでこのコーナーでは、「日本の心」の観点から、往年の日本映画を読み解いていきます。

***

僕たちは今、映画会社という言葉を、なんとなく「映画を作る会社」という意味で使っています。ですが、かつてこの言葉は、まったく違う規模のものを指していました。

かつては、作る工場を持ち、運ぶ流通を持ち、売る店まで持っている。原料から店頭まで、一本の線がすべて自社のものでした。あの時代の大手映画会社とは、そういう会社だったのです。つまり、Bean to Barのように、かつての映画は産地直送であり、一貫した生産者と顧客を結ぶ構造を持っていた。

この構造を知らなければ、映画史において重要となる「独立プロ」という言葉の重さが、理解できません。そこで今回は、最も巨大な構造から見ていきます。

戦後の日本映画を仕切っていたのは、松竹、東宝、大映、東映、新東宝、そして日活。この六社です。まず、各社はそれぞれ撮影所を持っていました。

◯ 松竹｜大船（神奈川県鎌倉市）・京都（下加茂から1952年に太秦へ移転、1965年閉鎖）\
◯ 東宝｜砧（東京都世田谷区、のちの東宝スタジオ）\
◯ 大映｜東京（東京都調布市多摩川）・京都（太秦）\
◯ 東映｜東京（東京都練馬区大泉）・京都（太秦）\
◯ 新東宝｜砧（東京都世田谷区、東宝第二撮影所が母体）\
◯ 日活｜調布（東京都調布市染地、1954年に新設）

実は、当時は監督も俳優も脚本家も撮影技師も、全員が月給取りの社員として会社に雇用・所属していました。この感覚は中々理解し難いでしょうが、今のようにフリーの監督が企画ごとに集められる構造ではなく、どれだけ映画が興行収入を上げても、監督に還元されることはありませんでした。なぜなら、会社員だからです。

簡単に言えば、会社に入り、助監督から始め、10年近く現場を務めて、ようやく監督に昇進して一本目を撮らせてもらう。撮影所とは、映画を作る現場であると同時に、徹底して会社だったのです。

ただ、最大の特徴として、各社は全国の映画館を系列に持っていました。ここが決定的です。何しろ、松竹の映画館では松竹の映画しかかからず、東映の館では東映しかかからないからです。これをブロックブッキングと言います。作品ごとに劇場と交渉するのではなく、上映番組があらかじめ自社で埋まっている。他社が入る余地も、独立した映画製作者が入る余地もない。

逆に言えば、埋まっているということは、埋め続けなければならないということです。

何しろ毎週、番組は替わります。しかも、1954年に東映が新作二本立てシステムを始めて以降、各社が追随し、一回の興行に対して、二本の製作が必要になりました。当時映画は二本立てであり、一度料金を払えば、二本の映画を見ることができたのです。かつて、レコードにA面とB面があった感覚です。ちなみに東映は、大量生産を最も得意とした会社です。

つまり撮影所は、途切れることなく作品を生産し続ける義務を自ら抱えてしまった。この体制で「量産された作品群」が、プログラムピクチャーです。

一体、どれくらい作っていたか。1960年、日本映画の製作本数は、何と547本（史上最高）。単純に割れば、週に10本以上が封切られていた計算になります。もちろん、それほど大量に映画が生産されていたのですから、その分、観客がいました。

事実、1958年に映画館の入場者数は、11億2,745万人に達しています。当時の日本の人口がおよそ9,200万人ですから、国民一人あたり年に12回以上、映画館に通っていたことになります。今では信じられませんが、テレビ時代以前の映画黄金期には、ここまで映画が輝いた時代があったのです。

大量の観客と、大量の映画。するとそれを繋ぐ映画館の数も、当然増大します。結果、1960年に7,457館でピークを迎えます。今も全国を巡っていると、時折寂れた土地に廃墟となった映画館を目にすることがありますが、これは典型的な昭和映画黄金時代の遺産です。

その遺産で実際に観賞体験がしたい場合、個人的なおすすめは、新潟県上越市にある高田世界館です。ここは何と開業が1911年（明治44年）。明治から大正期の趣を残す大変貴重な映画館で、今も映画を愛する有志の方々によって、定期上映が行われています。

また、当時、テレビは全国に150万台ほどしかありませんでした。映画が「娯楽の王様」と呼ばれたのは、誇張ではなかったのです。

さて、これほど完成された仕組みが、なぜ綻びを見せたのか。これは映画に限らず、あらゆる産業に起きることですが、非常に面白いので重点的に見ていきます。

発端は、一つの協定でした。1953年9月10日、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の五社が調印した「五社協定」です。きっかけは、戦後は興行中心だった日活が製作再開を決め、撮影所を建てて他社から監督や俳優を引き抜こうとしたことに始まります。それを防ぐために結ばれた、専属監督や俳優に関する協定です。

一方、皮肉なことに、1958年9月には当事者の日活も加わって六社協定となり、ここで「貸さない、借りない、引き抜かない」の「三ない主義」が掲げられました。1961年に新東宝が経営破綻して再び五社となり、この協定は1971年に自然消滅します。

言葉にすれば、業界の紳士協定。ですが、これは働く側から見れば意味がまるで違ってきます。なぜなら、会社を辞めるという選択肢が、映画界から消えることと同義になったからです。今風に言えば、干される、ということです。その起源が、ここにあります。

例えば、監督が松竹を出ても、東宝は雇えない。俳優が大映と揉めれば、行き先がない。作りたいものと会社の方針が食い違ったとき、選択肢は、諦めるか、業界の外に出るかの二つしかなかった。実際、この過程で業界を追放された監督、俳優などは、本当にいます。

ですが、会社は常に事務と現場で温度差を持つもの。事務が五社協定で出口を閉したところで、現場の熱気を抑え込むことはできません。こうして需要と供給が一致していた時代、熱気を帯びた製作者との間に、大きな亀裂が入ります。重要なことは、この亀裂はその時に起きたことではなかったこと。亀裂は、ある延長線に現れたものです。

その発端が、敗戦直後の1946年から1948年にかけて、東宝で三次にわたって勃発した労働争議です。これは、戦後最大の労働争議でした。第二次争議のさなかには、長谷川一夫、山田五十鈴、原節子、高峰秀子といった時のスターたちが「十人の旗の会」を結成して脱退し、第二撮影所を母体に新東宝が生まれた経緯があります。

第三次争議では、何と撮影所の接収に、警視庁予備隊と米軍まで出動する事態となり、装甲車両が撮影所を囲みました。「来なかったのは軍艦だけ」という言葉が残っています。映画の撮影所に、戦車が来たのです。

なぜ、ここまで映画界が沸騰していたのか。というよりも、なぜ米軍まで出動する事態になっていたのか。ここに、現在からはなかなか見え難い、当時の激しいイデオロギーが潜んでいます。

そこで次回、映画界に沸き起こった激しい弾圧の歴史を見ていきます。

---

執筆: 三井崇央
編集: TM MAGAZINE
発行元: ジハンジンコ株式会社

『TM MAGAZINE』内コンテンツの著作権は、すべて編集・発行元に帰属します。
本メルマガの内容の大部分または全部を無断転載、転送、再編集など行なうことはお控えください。

## 三井崇央の本

### 最新作：『和と大和』（三井崇央初の思想書、2026年10月21日）。ほかに『僕は何者なのか？』（日本人のルーツを求めて日本列島をフィールドワークした7年間の記録）、写真集『Where Was I? 僕はどこにいたのか？』

- [和と大和](https://www.amazon.co.jp/dp/B0HNQW4HQ8)（Kindle、2026/10/21）: 三井崇央初の思想書。「和」とは何か。魏の使者が聞いた「ワ」の音から、卑弥呼、十七条憲法、太子信仰、水戸、幕末、明治、戦後へ。和の変様の跡を辿り、多元の和を疎外した先に立ち現れる単一の「大和」（空気・同調圧力・忖度）を、山本七平『「空気」の研究』の先に位置付ける。
- [僕は何者なのか？](https://www.amazon.co.jp/dp/B0GTJ3WZKD)（Kindle、2026/03/23）: 自分のルーツは、両親ではなく祖父母を見ることで辿れる。1991年生まれの僕が、祖父母の故郷（石見の五十猛と温泉津、秋田の横手、瀬戸内の大三島）から津軽、岩木山、出雲、諏訪、宇佐へと、2019年から7年間日本列島のフィールドワークを行い、縄文・弥生・古墳の層に多元的な日本人の姿を探った記録。
- [Where Was I? 僕はどこにいたのか？](https://www.amazon.co.jp/dp/B0HM2WJVL1)（Kindle、2026/04/09）: まだ見ぬ未来への羅針盤。2019年から7年間、日本列島をフィールドワークして撮り続けた写真集。高千穂から始まった旅は、神武東征の道、北東北の紅葉と縄文、風土、海人族の海、出雲、そして津軽へと続き、やがて「僕はどこにいたのか？」という問いへ向かっていく。日本語と英語の二言語。
- [NO ONE DECIDED: Wa and the World's Most Orderly Society](https://www.amazon.com/dp/B0HNP81CR3)（English edition of 『和と大和』, Kindle, 2026/10/21）: Takahiro Mitsui's first book in English, the English edition of 和と大和 (Wa and Daiwa). No one decided, and yet it is decided; no one ordered it, and yet everyone obeys. Mitsui names what lies beneath Japan's order: wa (和), the invisible working that makes the "one" possible whenever people become one, and separates it from Daiwa, the "Great Wa".
- ほかの著書: https://www.amazon.co.jp/stores/author/B09P7R6Q25
